だいちのプロフィール

ストレングスファインダー

  1. 親密性:すでに知りあっている人との関係を深めようとする人。受容(相手を受け入れる)の資質。
  2. 最上志向:強みの強化に集中し、優秀になろうとする人。やりたいことを極めたい。
  3. 学習欲:学ぶことが好き。内容や結果よりもプロセスを重視する。
  4. 個別化:一人一人の個性に興味を持ち、理解し、それぞれに合わせた対応をする資質。
  5. 規律性:決めたことが完璧に完了されることを望む人。約束厳守。
  6. 未来志向:未来のビジョンを持ちそこに向かっていく。未来の自分に軸足を置いているため、自分が変化していくことに抵抗が少ない。
  7. 目標志向:常に目標を設定し、そこにむかって効率的に進む。目標達成のための最短ルートを取ろうとする。
  8. 自我:社会や誰かの役に立って称賛されたい、認められたい資質。
  9. 調和性:他人との衝突を避けるために同意点を求める人。全体で合意を取ることがものごとを現実的に前に進ませるために必要であると思っている。
  10. 内省:考えることが好き。考えたい。

幼少期

1995年、大阪で生まれる。ギリギリ阪神淡路大震災のときは生まれていない(大変だったらしい)。1つ上の兄、2つ下の自閉症の妹、7つ下の妹の4人兄弟。

山口県の父と長崎県の母のあいだに生まれたので、家庭で関西弁は流れておらず、方言は強くない。ため口だと関西弁は出るけど敬語だと出ない。しばしば関西人じゃないと思われがち。

小学校

気弱なガリ勉メガネくん。クソがつくほど真面目。小テストはだいたい98~100点。女の子とは緊張して喋れない。

毎年のようにクラス替えがあるのに、なぜかガキ大将と6年間同じクラスになる(人為的なものだと思っている)。毎年のクラス発表のときは「またか…」という恐怖の気分だった。毎日開催の昼休みサッカーの時間に、ガキ大将命令で必ず自分がキーパーをやらされ、点を入れられたらキレられまくっていた。しかし気弱なのであまり抵抗せず。

ある日、他の友人と遊ぶ予定のときに、そのガキ大将が「一緒に遊ぼう」と言ってきた。そのとき直感的に「あ、今は自分のほうが立場が上だわ」と感じたため、断固として拒否をした。拒否した理由は他の友人も彼のことを嫌っていたから。その時の彼は寂しそうな顔をしていたのを覚えている。

小学校4年生から硬式テニスを始める。初めて出た大会で女の子にぼろ負けしてめちゃくちゃ泣く。小さいころから負けず嫌い。

自閉症の妹が毎晩大声で泣くので、その都度妹にキレていた。妹にキレたら兄である自分が親から怒られ、「なんでおれが怒られなあかんねん」と思いながら毎晩泣いていた(親に怒られたら毎回泣く)。学校での自分と、家での自分の性格に大きな乖離があった。

中学校

気弱なガリ勉メガネくん。ようやく上記の彼とは別のクラスになる。しかし他のヤンキーたちから軽いイジメを受ける。

中学はソフトテニス部に所属。市の中では強い中学だったので、市の大会で何度か優勝。最高成績は団体戦で大阪府ベスト8。

家庭はお金に余裕があるわけではなかったので、塾に通う選択肢はなく、進研ゼミを活用して高校受験に臨んだ。一人で黙々と勉強するタイプのガリ勉なので、勉強は強制されずとも自主的に取り組む。「できるだけ高い偏差値の学校に行くのが当たり前」という価値観だった。

自閉症の妹には相変わらずキレまくっていた。親に怒られて自分が泣くことはなくなったが、怒りで心臓が毎日キリキリしていた。この頃から少しずつ親と喋らなくなる。

高校

通っていた中学校の中では偏差値の高いほうの高校に入学したこともあり、周りとの価値観が合う。高校に行くことが楽しみで仕方なかった。

「ソフトテニス部がある」という理由でその高校を選んだのに、蓋を開けてみるとサッカー部に入っていた。高校受験時代に息抜きにしていたサッカーが面白かったことがきっかけ。ポジションはセンターバック(キーパーの最も近くにいるディフェンス)。1軍に上がることはなかったが練習にはひたむきに取り組む。プレーは硬派だったが、今振り返るともう少し遊び心を持ってプレーしたほうが技術の幅が広がったんじゃないかなと思う。

体育祭で副団長(クラスで3,4人いる中の1人)になったり、文化祭で白雪姫の王子様役をしたり、輪の中心にいる感覚が強く、楽しかった。初めての彼女ができる(相手は白雪姫)。

家では妹にキレる回数が減る。少し大人になったのかもしれない。

大学受験も周りが塾に通う中、進研ゼミを貫き通したのがちょっとした誇り。友達が公民館で集まってワイワイ勉強していて「お前も来いよー!」的なお誘いを受けていたが、馴れ合いより実利を選び、真っ直ぐ帰宅していた。目標に対する意志の強さ(目標志向)はその頃からあったのかもしれない。ひたすら家のリビングで自学。親に志望校の相談は一切せず。相談する必要性を感じなかったし、自分が選んだ道に口出ししてこないタイプの親だったため。

大学

立命館大学スポーツ健康科学部に入学。この学部を選んだ理由は、①高校のサッカー部の顧問が理屈っぽくスポーツを教えてくれたのが面白くて学びたくなった、②スポーツが好きでスポーツをしながらお金を稼げたらいいなと思っていた、この2点。滋賀にあるキャンパスで、下宿するお金がなかったので大阪から片道2時間半かけて通う。

大学1年の前期、”資格も単位も取れてお得”という理由で、簿記3級の授業を受ける。授業の評価はA+だった。簿記は向いているなと思ったのと、3級だけでは就活に役に立たないよと言われたので、そのまま簿記2級も学習を開始する。

簿記2級の最後の授業で、担当していた熱血めの先生に「公認会計士試験受けてみない?」と勧められた。公認会計士のことはよく分からなかったが「スポ健の星にならへんか?」という一言に燃えて、かなり軽い気持ちで受験することに(※立命館大学スポーツ健康科学部は創立4年目で、まだ学部から公認会計士に合格した人がおらず、学部初=星にならないかと言われた)。このとき大学1年生の11月。

ここから受験生活が始まる。ソフトテニスコーチのアルバイトを辞め、フットサルサークルを辞め、ひたすら勉強に打ち込む。試験の直前期は9時に自習室に来て21時に出たり、往復の電車の中でもテキストを読んだり、という生活だった。元々学習欲や目標志向、規律性などが強いため、一つのゴールを決めてそこに向かって突き進むのは得意。とはいえ「勉強ばかりしてつまらない人」というアイデンティティが嫌だったので、親しい友人からの誘いは基本的に断らず、ほどほどに遊ぶ。

受験中に彼女ができるが4か月ほどでフラれる。このときに「公認会計士のような社会から認められるような職についたとしても、身近に大切な人がいないと何の意味もない」と強く思った。

フラれた1か月後の2014年12月、公認会計士の短答式試験(選択式の試験)が実施され落ちる。その半年後の2015年5月、再び短答式試験があり足切りが正答率67%のところ、71.6%で受かる。2015年8月、論文式試験が実施され、試験の帰り道に「ようがんばったな」と感傷的になり、自転車をこぎながら泣く。2015年11月に合否の発表があり、無事合格。

監査法人(学生非常勤)

業界柄か、合格発表から10日後に大手監査法人から内定が出る。どこで働くかについては深く考えておらず、「会計士なら監査法人。監査法人ならBIG4」という具合で、王道ルートの中から自分にフィットしそうな法人を選んだ。

2016年2月、このときは大学3年生だったので学生非常勤として働き始めた。しかし受験勉強で培ってきたものとは全く別物のスキルを求められる監査業務に苦戦。周りの先輩は優しい人ばかりだったが、1人だけ恐い上司がいて、その上司と同じクライアントを受け持つことが多かった。強烈にキレるタイプではなく、「なんでできないの?」と詰めてくるタイプ。その上司に会わないといけないのかと思うと、朝起きるのが億劫になり、すぐに耐えきれなくなった。入所から7か月で退職。

北海道農業インターン

大学4年生の夏休み、農業の手伝いをしながら共同生活をし自らを見つめ直すインターンが開催されていたので、2週間そこに飛び込んだ。

このインターンの参加者は20名、受け入れ農家さんも20名ということで、各々が違う農家さんのところにお手伝いに行った。各自が夕方ころ宿舎に帰り、夕飯や今日の振り返りの準備をする。振り返りでは”有り様”を掲げ、その有り様に対して個人で内省したり、周りから意見をもらったりしてブラッシュアップしていく。農業×共同生活×有り様という三軸のインターンだった。

自分の受け入れ農家さんは、農家さんの中でも唯一恐れられているおじいちゃん社長のところだった。職場では常に怒号が飛び交う。農作業2日目にしてメンタルがやられた。夜の振り返りタイムでも「明日よ来ないでくれ」と願うばかりで、ずっと恐怖に怯える状態だった。

そんな中、先輩コーディネーターから「逃げてもいいよ」と言われ、それが大きなパラダイムシフトとなる。これまではクソ真面目を貫き通し、辛いことでも逃げるべきではないと思い込んで生きてきたが、”逃げる”という選択肢が生まれた。これは自分の中で「己にウソをつかず、嫌だと思うことには嫌だと言う」ことと同義だった。この機を堺に少しずつ”八方美人”がとれていき、”自我”が芽生え、”我がまま”になっていく。このころから好き嫌いがハッキリするようになった。

農業インターンは結局逃げずに最後までやり通し、最終的におじいちゃん社長に「あいつは大物になるかもしれんぞ」と言わしめたので満足している。

ボランティア活動

2016年4月14日、熊本地震があった。同年の9月ころに仲良くしていた後輩が「熊本に何かできないか」と考え、ボランティア団体を立ち上げる。そこに誘われたため、大学4年生の後期はボランティア活動に力を注ぐ。内容は被災して仮設住宅に住んでいる人たちに対し、孤独感を感じないようスポーツの力でコミュニティを作ろうというものだった。

関西の大学なので、熊本に行く交通費だけでも自分たちで出費するのは厳しかったため、クラウドファンディングを実施する。大学4年生だったこともあり、後輩に財産(資金や成功体験)を残したい一心だった。いろんなところに頭を下げた結果、教授やメンバーの親、友人から支援をしてもらい目標金額の270,000円の調達に成功した。嬉し泣きを3回したのを鮮明に覚えている。①支援してくれた感動の気持ちから寝室で1回、②パトロンさんからの温かいメッセージを読んで大学の食堂で1回、③同じ4年生とむなし(定食屋)で飯を食べているときに、後輩のツイートを見て「(後輩が)成長したんだなぁ」と実感して1回。仲間と成し遂げる喜びを身体に刻み込んだ体験だった。

思い出を残した記事:【クラウドファンディング成功】なぜ無名の学生団体が、ムーブメントを起こすことができたのか?

HP制作会社で営業(新卒)

監査法人を辞めたのが大学4年生のときだったので、改めて就職活動を開始する。「大企業は上司ガチャがある」と悟ったので、全員の顔が見える小さな会社に絞って見ていた。また大学2年生のころにブログで商売をし、モノが売れたのが楽しかった経験から、webマーケティング業界で探した。結果、熱い社長に惹かれ、ホームページ制作会社に営業職で入社する。

やってみて判明したことだが、初めて会う人と頻繁に話す営業が苦手だった。ノルマを課せられ、半分押し売りのような感覚で営業をしてしまっていたので、仕事中はずっと罪悪感が拭えなかった。テレアポをするときお客様のWinになる提案をしたい一方で、横に社長がいるので”営業としての引き下がらないガッツ”を見せなければならず、思っていることとやっていることの不一致が生じ、相当ストレスだった。その結果、頻繁に胃腸炎になる。

人が良ければ楽しいかと言われるとNoで、結果を出せなければ楽しくないことが分かった。そもそも中に入ってみると社長も先輩も恐かったので、人が良いとも言えなかった。最終的に9か月で退職。

フリーランス

①付き合う人を自分で選べること、②自分の裁量下で自分の責任で仕事をすること、③自分の才能を活かせること、これらが重要だと思い、フリーランスとして自分で仕事を作ろうと試みる。

2018年1月(22歳)、アフィリエイト、ライター、カスタマーサポートの業務委託、セミナーの開催、コンサル/コーチング業務など、できそうなことは片っ端からチャレンジする。すべて自分の責任の範疇での仕事だったので、ストレスがなく楽しんで仕事ができた。収入が少なくキャッシュフローの心配はあったものの、人間関係のストレスよりはよっぽどマシだった。

友人の会社にジョイン

2018年12月(23歳)、フリーランスのころより業務委託で関わっていた友人から、入社のオファーを受ける。2019年7月(24歳)からjMatsuzaki株式会社に入社した。2020年12月時点でメンバーは5人。全員がフリーランス上がりということもあり、「自由」に重きが置かれたゲマインシャフト型の組織(そのメンバーで働くことを目的とする組織)。

オンラインコミュニティ事業「ライフエンジン」のプロダクトマネージャー、運営しているタスク管理サービス「TaskChute Cloud」のグロース・N1インタビュー・開発・カスタマーサポート、会社の経理などを主に担当している。

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